夢みるタカラヅカ展/そごう美術館

顔を出して、即席お姫様写真撮影コーナ

 タカラヅカアーカイブス展と言った様相の企画展です。戦前の映像から、歴代『ベルサイユのバラ』ポスターの展示とか。
 更にプラスアルファとして何人かのアーティストがこの企画に向けて新作品を提供、もしくは元々持っていたタカラヅカをモチーフにした作品を提供しております。
 そこで、写真家のやなぎみわがパンフレットに載せたエッセイにハマってしまいました。不意打ちだ。全く、どこで何がツボにハマるか分からん。

タイトルは「処女神よりもグロリアになりたい」だったか。
(以下、立ち読みの記憶がベースです。)


 ヅカファン祖母と母の元で幼いころから宝塚を、劇場に足を運んで見てきた(見させられてきた)彼女。宝塚音楽学校への入学さえ勝手に検討されていた時期もあったとか。
 そんな彼女が12歳の時に、初めて自分の意志で選んだ映画『グロリア』を母親を伴って上映館まで見に行ったという話です。グロリア [DVD]
 『グロリア』は、「組織」のボスの元情婦、中年女グロリアが「組織」の抗争に巻き込まれた少年を守りながら一緒に「組織」から逃れようとする話。つまり、オンナ版『レオン』。*1
 年相応のしわをたたえ、タバコをふかすヒロインを母親は不快そうに見ていた。けれども、彼女はタカラヅカ男装の麗人にはなれないけれど、グロリアにはなれると思ったそうです。
 タカラヅカといえば、男装の麗人そのまんまのオスカルの『ベルバラ』ですが、未だ原作漫画をちゃんと読んでおりません。このエッセイで、オスカルが革命で死んだのは30歳を超えたぐらいだったということを、初めて知りました。
 やなぎ氏は、オスカルは少女ではなく、真に生身の女として目覚める直前のタイミングで、作者が殺したのではないだろうかと推測しています。30歳というのは、少女的な生き方を引っ張り続けられるギリギリのラインというわけです。
 私が12歳の中学生だったとき、将来についての作文を書かされて発表ということがありました。クラスメイトの女子で
「私は30になったら、死にます。それ以上は生きていたくない」
という発言があって、かなり衝撃を受けました。なんで死ななきゃならんのか、理解できず。けれども、やなぎ氏の文章を読んで、クラスメイト自身も当時、言葉にしきれなかった気持ちが、ようやく少し分かったような気がしました。
 そんなやなぎ氏の作品は、ほぼ同じ設定でありながら、男女の役割がそれぞれ逆転した『レオン』と『グロリア』を、制服姿の少女達が役者として演じ、それを演出し、見守る観客も同じ制服姿の少女という映像作品でした。
 彼女のエッセイの中で「守る」という概念がタカラヅカを成立させる要素として重要という指摘がありました。それは物語上のステキな男性に守られるヒロインという守るという意味と、演じるジェンヌたちを見守り続ける観客、両方を意味しています。
 でも、タカラヅカを創り、“演出”してきたのは、現実にはほぼ100%男性でした。*2それを思うと、この共同幻想は女性から自然発生したものではなく、男性が作ったものに女性が乗っかりつつ、男性側の当初予測とは外れたもの*3になったのかなぁと妄想するのです。
 私もヅカファンの母親を持ち、子どものころ、しょっちゅうNHKの劇場中継を一緒に見ていたけれど、それほど詳しくない人間。そして『グロリア』がとても好き。カッコいい。
 けれども、確かに甘い少女の時代もそれなりにあって、決別はしたものの、その悲しみが少しは胸にあるのだなと。彼女の文章を読んで、改めて思ったのです。

夢みるタカラヅカ展:http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/04/1020_takarazuka/index.html

*1:『グロリア』の方が14、5年も前に作られてるので、『レオン』はオトコ版『グロリア』といった方が正確ですが。あー、こうやって考えると雑誌『LEON』の真のパートナーは『NIKITA』じゃなくて『グロリア』ですかね。死んじゃうレオンや、1人旅立つニキータと違って、少年とともに最後まで生き延びるグロリアの方が、かなーりタフですが。

*2:最近女性の方も1人いると聞いたことがありますが、なにぶんヅカに詳しくないのでなんとも。

*3:例えば、少女による少女のためのではなく、少女による、行き場を失った少女のココロを持った元少女のためとでも言うか。韓国の微笑みの貴公子に熱くなるオバサマたちも、似たものを感じます。