私たちは試されている

 たまたまランチで入った和食のお店に置いてあったフリーペーパー「自然時間」に掲載の村上龍のエッセイが載っていた。いつもの理詰めの調子と違う、ちょっと内省的な結びで印象に残った。以下はそのエッセイの結びの抜書き。

…帰国して、いつものように犬と近所を散歩した。そしてあちこちに咲いているあじさいの花を見て、そのあまりの美しさにわたしは立ちすくんだ。あじさいは以前から好きだったが、それとはまったく違って見えた。(中略)ものすごく大変な状況で最大限の努力をしたあと、故郷・家に帰ってきて、花を眺めたときに、異様に美しく見えるのだとわかった。

当たり前のことだが、その人がどんな状態であろうと花の姿が変わるわけではない。神経が過度に疲れているとき、大きな心配事があるとき、ひどい二日酔いや睡眠不足のときなどは、花の美しさに気づかないだけだ。(中略)あじさいに限らず、花々はわたしたちを試している。心が疲れていないか、外の世界に対して閉じていないか、そういうことをわたしたちにそっと尋ねている。

 村上龍とは逆の経験をしたことがある。

 最後に勤めた会社を辞めた直後、うって変わってヒマになったので、何年かぶりに美術館に出かけたところ、何を見ても全く心が動いていないことに気づいた。

 赤い色、女性が右斜め向きにポーズを取る、幾何学模様…と、頭の中で視覚情報はキュインキュイン音を立てて高速処理するのだけれど*1、ただそれだけ。キレイ!という気持ちすら湧き上がってこない。

 それどころか、絵を見るのが苦痛だった。こんなことして何になるのだろうか、という気持ちだった。(昔はあんなに好きだったのに!)

 自分自身に愕然とした。何の企画展だったかも全く思い出せない。これは人としてかなりダメな状態だと思われ、自己リハビリ。もうすっかりよくなりましたが。

*1:この機械的に分類するような反応の仕方が何とも気味が悪かった記憶も