500年の大系:植物画世界の至宝展 /東京藝術大学美術館

 エリザベス女王を総裁にいただく英国王立園芸協会(RHS)の、植物画コレクションを、本国でも閲覧が難しい作品を含めて大公開、だそうで。

 植物を見たままに、資料として残すために描く。ただそれだけの目的だったはずなのに、なんでこんなことになってしまったんでしょう、キレイキレイ、ステキ過ぎ!!!と、心の中で大はしゃぎ。正確であろうと研ぎ澄まされていった結果、何か微妙に違うものに進化しまったというか。

 自分でも驚くほど“食い入るように”見てしまっていたのは、きのことか、ぶどう、すももと言った食べられるもの。

 きのこのふっくらと開いた傘の下のヒダを見ながら、ああ〜いい匂いがしそう〜とか、ぶどうの粒の皮の色ツヤ、すもものやわらかそうな産毛を見て、かじったらジュワッと甘い果汁が口の中に広がりそう〜〜とか、そんなことばかり脳内で反芻して、うっとり。

 植物画が生まれた初期の16世紀ごろまでのものは、手段が木版に限られていたため、絵柄がちょっと違う。木版は線を太く残さざるを得ないので、どうしても絵柄が単純気味。

 けれども、それ以降はプリントにせよ金属版が発達したりで、線を中心にした図版に。昔の人は繊細な線でリアルな絵が描けなかったというわけではなく、あくまで図録に載せる植物画なので、一点ものではなく複製のできる木版という技術に縛られていたってことか。

 だから、線の描き方といったテクニック面は300年前の作品も今の作品も、殆ど大差のない様式美の世界。作家の個性が比較的でるとしたら構図というか、その植物の切り取り方か。

 どんな人だったのか、はっきりとは分からない(生前から画家として活躍した人ではなく、死後随分経った後、彼女が子供のころから描き続けていた画集を家族が寄贈したという経緯のため)キャロライン・マリアのシリーズは、確かに素人目にも頭一つ、他の人とセンスが違う感じがした。

 で、写真の出現のおかげで、一旦は衰退するものの、今、また復活しているというのは、何となく分かるような気が。

 写真よりもこっちの方が、未知なる品種をパッと直感的に理解できそう。人の観察眼を通して、その種の全般に渡る特徴が標準化、かつ効率よく整理されているし、茎や葉にある産毛の1本1本、根っこの先の腐りかけのところまでもらさず描く偏執狂的精緻さ。何より、単純に美しい。