ふるさとというか、ある日本の田園

 今日の演奏に、ベートーベンの交響曲『田園』がありました。これ聞きながら、実は全く違うことを考えていました。『田園』って、すごく田舎を美化した曲だよなと。(もっとも、あれは外国の話ですが。)
 それで、ずっと忘れていたことを、思い出してしまいました。
 または昨日、森の人に私のところは田んぼばっかりだったという話をしたら、
「じゃ、ステキな田園風景だったのね」
と言ってくれたことに対する違和感の原因とでもいうか。
 平地とはいえ小さな森や木陰があったり、キレイな小川が流れていたり、小鳥が囀ってたり、そういう風景に陰影というか起伏というか、メリハリがある場合はそうかもしれません。ベートーベンの曲もそういう豊かな起伏があります。
 確かに春先の一面のれんげ畑と、秋の黄金色の実りの季節は美しい思い出です。けれども稲が成長〜刈り取られるまでの間は、入ってはいけない場所。農家の方に悪いから。(当たり前ですが)だから、複数の友達と外で遊ぶとしたら、学校の校庭のみ。田舎だからといって、野山を駆け回っていると思ったら大間違い。
 そして今では考えられないことですが、セスナ機による農薬の空中散布が行われていました。
 夜8時過ぎごろ、バリバリバリとプロペラの回る音を響かせながら、散布されるのです。
 昼間に拡声器で上空から
「今夜は農薬の散布が行われるので、夜は外出せず、窓は締め切って寝てください」
とアナウンスされた指示通りにしたところで、独特のニオイは戸口や窓の近くだと、かすかに感じます。
 静かな田舎の闇夜に響く低空飛行するプロペラ音といい、農薬が家の中に入ってきたら大変、という大人たちの雰囲気と共に、子ども心に、得体の知れない不安を感じたものです。
 それにしても、たまのこととはいえ夜間外出禁止令を、みんなで守っていたというのも、今思うと不思議というか、異様というか。
 画一的ということは、こういうことが可能だったということ。
 土地のほとんどが水田と、水田に水を引く用水路(キレイな小川ではない。結構、汚い)だけだとしたら…ある意味、こんなに人工的な環境はないのかもしれません。だからかどうかは分かりませんが、コメント欄でkontonさんが書かれていたのと同じく、強い思い入れとか郷愁はないのです。
 田んぼの消えた跡に、ありふれた画一的な人工物が乗っかるのは、むしろ「自然な」流れだったのか、と思いつきで妄想したり。