家庭崩壊?

職場で聞いた、とある公立中学の先生のお話。
その学校では、制服に着替えて学校に行くということが理解できず、そのまま私服で登校する生徒が何人かいる。親が子供に教えないし、着替えさせようともしないから。(制服制度に反対しているということでもなく、制服が買えないということでもないらしい。)学校では、そんな彼等のための制服を入れる専用のロッカーを用意し、登校してからそこで着替えさせるのだという。
一日のうち唯一の調理された食事が給食だけの生徒も当たり前にいる。家ではお菓子、ジュースなど、そのまま食べられるものだけを食べている。親も同じ。そんな彼等には日々の食事の取り方の指導をする。
また、一週間に一度だけ戻ってきて、子供に5000円を渡すとまたフラリといなくなってしまう親。
先生は携帯電話が必需品。生徒達と番号やアドレスを交換する。すると真夜中でも、生徒からかかってくることもあるのだという。そんな時間にかかってくる電話は、大抵
「先生、助けて!」
というSOS。よからぬ遊び友達等々にからまれていたり。
親があてにならないから代わりに先生に助けを求めるらしい。
学級崩壊の前に、家庭崩壊があって、この先生の学校では今、勉強を教える以前に、もっと基本的なことを教えたり、親代わりに面倒を見ることに時間をとられつつある…。
こういう話を聞くと、私の生活に何の関わりもないはずなのに、ブルーな気分になる。なぜだろう。子供は今いないけど、いたらこういう世界と関わることになるからか。それとも、親を選べない子供の立場を考えてしまうからか。
けれども。しつけをするところ=家庭と考えがちだが、果たして昔からそうだったのか。
昔読んだ『日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)』を思い出す。
一部の特権階級や都市生活者、富農層を除いて、しつけとは家庭で行われるものではなかったらしい。
正確に言うと、農村社会では労働に関するしつけには相当、厳しかったが、生活やマナーに関することに関しては(現代の感覚からすると)全く無頓着だったらしい。
例えば、鍬をしまうときには、泥をつけたままではならぬ(=サビてしまうから)ということは教えても、食事の前には手を洗えとは家では言われない。衛生の観念は、学校が教えて広めたことだから。
また、気心の知れた狭い村の中で一生を終える人がほとんどの江戸時代には、かしこまった挨拶も礼儀も必要がない。
明治以降、子供たちを学校に行かせるようになったのも、親たちは労働や自分達のことに忙しく、子供の教育に関心もなく、とりあえず学校に預けておけばその間は世話しなくても済むからいい、ということだったらしい。
それが劇的に変わったのは高度成長の時代からだという。
そう考えると、最近の現象も特別なことではなく、むしろ昔に戻っているということなのだろうか。本当にそうなのか?私には分からない。
ただ、いまどきの若いものはなっとらん、昔はよかった、昔に返れという言い方が嫌いというか、現状を責めるだけで一方的に過去を美化するだけでは何も解決しないんじゃないか、とは思っている。