ビッグ・リバー ハックルベリー・フィンの冒険/青山劇場

何より驚いたのは、半分も席が埋まっていなかったことだった。どおりで我々まで招待券(S席 1万2000円)が回ってくるわけだ。
全米が感動し、「この作品は常にエネルギーに満ち、温厚で、まばゆいばかりに鮮やかである」(ニューヨーク・タイムズ紙)らしいミュージカルだそうだが、友人と私は全く感動しなったばかりか、心の方はむしろ寒々。
招待券を調達してくれた友人は「1人も共感できる登場人物がいない。タダだったからいいけど、お金払っていたら見るのも無駄な作品だった」と言い切るほど。
「『ビッグ・リバー』はさ、ミシシッピ川でもありアメリカ白人と黒人、そして私達の間を流れる大きな溝なんだよ」
う、うまい。座布団10枚です。
ただ、私には違う意味で大変勉強になったと思いが強く、誘ってくれた友人に感謝しております。
恥ずかしながら『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだことはないです。けれども、大体、松岡正剛氏の書評にあるようなイメージを持っておりました。松岡氏の言葉を借りるなら「辺境少年のみが喝破しうるアメリカ社会の“病んだ真実”」の物語ってことでしょうか。
だから、出てくる白人(トム・ソーヤー含めて)にことごとく共感できないのは仕方がないというか、最初からそういうものだと割り切っているのですが、このミュージカルに限っていえば、ハック、あんたも程度は軽いけれども病んだ側の住人なんだね〜という感じ。
親なしの浮浪者少年の渡る世間は確かに鬼が多いけど、黒人じゃない分だけ随分ましなんだなとか、彼が黒人奴隷ジムの逃亡を助けるのも、奴隷の置かれたギリギリの立場を理解しての上でなく、白人オトナ社会へ対する子供のいたずら、反抗のダシとしてか考えていなさそうで、随分薄っぺらい正義感だなとか。ハックには、まだそれなりの葛藤があるけれど、トム・ソーヤーは迷いがなく100%そんな感じ。
で、友人は「これに感動できるのは、あの音楽(バンジョーをかき鳴らしたカントリーミュージック)にノスタルジーを感じられる人なんじゃないの」とこれまた厳しい分析をするのですが、アレを見てノスタルジーだけに終わってしまう人がアメリカには多いんだなということを確認できたことが勉強になったということでしょうか。感動っていうか、色々考えさせられると思うんだけど。
他の人も上手いけれど、ジム役の人の歌声が飛びぬけて上手いだけに、ますます複雑な思いがするのです。
それにしても、当主が亡くなった途端、突然やってきた叔父(実は詐欺師)に財産を取り上げられそうになる娘たちのエピソードは、「風と共に去りぬ」を思い出してしまった。女子には実質、主権がないんですね。従兄弟からは結婚を迫られる(つまり、彼等の傘下に入ることを意味する)し。お父様亡き後、スカーレット・オハラが家と自分を守るため手段を選ばなかったのも仕方がないことだなと改めて思いました。
また、最初のシーンでハックに皆が「学校に行け、教育を受けろ」と迫るのですが、この「教育」とはすなわち「聖書を読めるようになれ」ということであり、聖書が読めなければ地獄に落ちる、と脅迫しているわけです。まるで細木数子のようという冗談はさておき、この「神を信じよ、神に従え、さもなくば…」という容赦のなさも、今のアメリカをなんとなくイメージしてしまいます。そのうえ、ハックの心の葛藤というのも結局のところ「逃亡奴隷を解放してやることは、神の教えに背く」というものでして、神というのも随分、時代によって都合よく利用されているのだなと。

実はこのミュージカル、ろう者と聴者が共演して舞台を作りあげる形式のもので、「感動」の多くはこの部分にあるのだろうとは分かるのです。ですが、本当に大事なのは、形式ではなく話の中身だと思うのです。形式だけを評価するのはむしろ、ろうパフォーマーの方々に対し「ハンデがあるのにがんばってるね」と、色眼鏡で評価してるのと同じではないかと。
それに英語の苦手な日本人(私)の場合、手話で行われる演技、同時に別の役者がやる英語の歌とセリフ、更に両袖の日本語字幕と三箇所をグルグルと目で追い続けることになって、かなり疲れてしまったのでした。とほほ。
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