ダスト 

 地下鉄に乗っていると、たまにだが突然、百年後のことを想像してしまうことがある。百年後、今、この車両に乗っている人で、生きている人はいないだろう。一気に時が進み、ボロボロのシートや、くもの巣だらけのつり革に白骨化した人々が座ったり、つかまっていたりするビジョンが頭に浮かんで、私は眩暈を起こしそうになると同時に、泣きたい気持ちになる。百年後には必ずいない、そう考えるとたまたま乗り合わせただけの、何の関係のない人たちにも、なぜか愛おしさみたいなものがこみ上げてくる。いなくなるのは私も同じだけれど。
 「ダスト」は、ある二人の兄弟の物語を、世紀末のニューヨークで死を目前に控えた老婆が、彼女の家に盗みに入った黒人青年に向かって唐突に語りだすところから始まる。その物語は、百年前のアメリカの荒野から、20世紀が始まったばかりのパリ経由、オスマン・トルコ支配下マケドニアへとさまざまな人間を登場させながら舞台を変えて進んでいく。「最後に私が出てくる」と老婆は言うが、一体この老婆は何者で、この話は何なんだ???
 無名の人の無名の人による無名の人のための物語。なのに、時代も空間も違う人間同士、生者と死者が、繋がっていると感じられる奇跡のような瞬間が描かれている。黒人青年の今も、100年前のマケドニアも無関係ではなくなる。
 で、ここが肝なんであるが、結局、老婆は「出てくる」前に亡くなってしまう。オチがどうなるかは観てのお楽しみ。
 この「物語」はまるで生き物のようだ。語り手の主観と聞き手の主観が混じって、新たに生まれる「物語」はオリジナルの完全なコピーではなく、別の遺伝子が組み込まれる。けれども、別の遺伝子を組み込むことで「物語」は生き残びて行く。「塵(ダスト)は塵に」*1帰るが、塵(人間)の物語は続いていく。
 監督はマケドニア出身。祖国が他者に支配されている時代を延々と写している。マケドニア人もトルコ人も、他国から来た賞金稼ぎたちも山のように無残に死んでいく。だが、決して「祖国の悲惨な歴史」を訴える映画ではない。二人の兄弟もバルカン問題には無関心だ。結果として、マケドニア史などこれっぽちも知らないアジアの一映画観賞者(私)にも、身近に感じられる内容になっているが、これがもしかして、忘れられた国マケドニアを覚えてもらうために敢えてとった「物語の形」だとしたら、ものすごいことだ。とにかく、いろんな意味でよく考えられた映画だと思う。久々に本気で感動。
 そして、死にそうなくせに病院のベッドの上で時々死んだフリをして若者を困らせる、そんなお茶目な老婆になりたい。できれば。

*1:聖書の言葉。他にも聖書由来セリフがてんこ盛りであるが、意味が分からなくても大丈夫。分かっていたらもっと面白いかも。主要登場人物の名前の由来らしきものが分かっただけでも、なるほどと思ったぐらい。