永遠なる薔薇 石内都の写真と共に/ハウス オブ シセイドウ

 石内都の薔薇は、やはり人肌なのだと思った。それも中年以降の人肌。


 水滴をまとった薔薇の花たち。仮に秋山庄太郎の撮るそれなら、花びらはそれを弾いて、今にもコロコロと玉のように転がり出すのではないかのごとく。


 けれども石内都の薔薇の水滴は弾かれず、端がにじんで広がっている。または玉のようなはっきりとした盛り上がりがない。それは、その花が微妙に盛りを過ぎた状態であることを意味する。


 固い蕾の初々しさでもなく、咲き始めのみずみずしさでもなく、開き切って、一触れすれば、ハラハラと落ちてしまいそうなもの。露地に咲いてそのまま立ち枯れて、薔薇の花の原型を留めずグズグズになっているものもあった。それらの、乾燥して皺や亀裂の入ったり、葉脈ならぬ花脈(という言葉があるのかどうか分からないけど)が浮き上がって見える色あせた、またはくすんだ色の花びらは、年月を経た女性を思わせる。


 石内都が「薔薇」をテーマに展示をすると知ったとき、非常に違和感があった。彼女とは縁あって一度だけ話をしたことがある。「SCARS」という、生身の身体とその肌に刻まれた痕跡(火傷、手術跡、老人班等々)の作品集を見た後だった。


 私は、どの身体も(決してモデルさんでもない普通の人の身体なのに)美しい彫刻のようで、傷自体もそこに刻まれることが必然であったかのごとく、年月を経て身体になじみ、皺やたるみと渾然一体となり、むしろ傷があることで美しさが完成しているようにさえ見える、その肌に触れてみたいくらいだ…というようなことを述べた。


 それに対し
「だってそうよ!私は(傷跡を)綺麗だと思って撮ってるんだもの!綺麗じゃないと思ってたら撮らないわ」
と、ポンっと小気味好い返しをいただいた。


 一般に綺麗でないと考えられているものの中に誰も考えもしなかった綺麗を見出して、見事に提示してきた人が、今さら綺麗綺麗で当たり前の薔薇を撮るなんて、どういうことなんだろうかと。それが、私の違和感だった。


 会場にあったのは盛りを過ぎてなお、ありのままで美しい薔薇の花たちだった。


 最も大事にされているのは、色々な薔薇の様々の段階の朽ちていく道すがらの質感。こんな風にじっくりと、盛りを過ぎた花脈を始めとした薔薇の花びらの質感を見つめることなどこれまでにない。質感に自然と目がいってしまう撮り方。そしてやはり石内都の手にかかると、触れてみたくなるようなぬめりをたたえている。そんな独特の美しさで迫ってくるような気がしたのだった。