「庭園植物記」展/東京都庭園美術館

 アラーキーの「花曲」というシリーズは多分、見るのは3回目になるのだと思う。で、3回目にしてようやく、極めて絵画的に撮ってるんだなぁと遅まきながら気づく。絵画的というのは、奥行きが圧縮されて平面的とでも言うか。

 過去二回とも10枚以上の大きな組写真として展示されていたせいか、ケバケバした色彩に目がいってしまって「(いつもの)エロスね〜タナトスね〜」とだけ思って通り過ぎていた。

 入口の直ぐ脇に、黒い額に入った花の写真が1点、イーゼルにかかっていた。写真だけど絵のようだと思ってマジマジと見ると、「花曲」シリーズの1つだったことを思い出す。

 そして中に入ると直ぐ右手に「死情」(モノクロ)。枯れたヒマワリをメインにいろんな枯れた花がバケツに挿してある。一見無造作に見えて、かなり意図的に平面的になるよう枯れた花々が組まれている。

 2階に「花曲」で壁から天井まで埋めつくされた小部屋があり、これまでと違った目で眺める。スナップのように本能的に、軽やかに撮っているように見えて、計算しているのだなと。

 いけばなに関する写真も数多く展示あり。確かにいけばなはナマモノなので、写真という形にしないと残らない。

 でも、写真で触れるいけばなからは、どうしても「教本」をイメージしてしまう。昔習った杵柄、いや母親の代からの弊害か。

 中川幸夫の「魔の山」の、むしられたチューリップの花びらの山が、怪しくきらきら光る燐粉を撒き散らす蛾の羽の山に見えてしまう。実際、あんな赤い羽根の蛾はいないと思うけれど。

 蜷川実花のサンルームの透過光を利用した展示からは、なぜか元禄の豪華絢爛、ケバケバ大衆文化、または花札の絵札を連想。横じゃなくて縦長だったからか。不思議と日本的な感じを受ける。

 東松照明のゴールデンマッシュルームと廃園シリーズ。自作の背景に、自然物(花、葉っぱ、実、魚、虫、タンポポの綿毛?、その他色々)を配して、独自の世界。期待以上。

 また五百城文哉の「百花百草図」に横山松三郎の「菊」。明治時代の洋画を習った人の描いた掛軸と日本画の影響が濃い油絵。これらもまた、1つ1つの花は色鮮やかに精緻に描きこまれていながら、それぞれの花の奥行き感が妙に圧縮されていて、一種独特の異様な存在感。

 同じ学者でも、牧野富太郎先生の植物画は、正確かつ美しい描写で正統派。南方熊楠先生のキノコ画は、サラサラと走り書き。周りに英語での書き込みもされているので、今風に言えば文字超過多の絵てがみ的。ただし書き込まれている内容は全く違うんだろうけど。キノコだもの。