レオノール・フィニ展/Bunkamuraミュージアム

 もっとオドロオドロシイ、女の業みたいな作品をイメージしていて、それに呑み込まれないようにするぞ〜という心構え(期待)で、望んだわけですが…予想外にエレガントであっさりな作風のものが多くて、肩透かしをくらう。事前に見た美術評論家と私とは随分、感覚が違うということか。

 なんだか似たようなテイストのものをあちこちで見たことがあるような。パッと思いつくだけで、ギーガとか、金子国義とか?

 ああ、時代的には彼らの方が後。ということは、かなりな影響力のある方ということになるのだけれど、彼女の方が彼らよりも味付けが薄いというか、ギーガや金子国義の、私が嫌だな〜と感じる部分が抜けてる感じとでもいうか。あざとくない、挑発的でないというか。

 この展示で印象に残るとしたら、作品というより彼女、フィニという人自体。美しく描かれた自画像の多さと、自作の衣装やアクセサリーで仮装した数々のお写真に映像から、大変濃そうなキャラの持ち主だな〜〜と。

 で、この辺の違和感は、図録の解説を読んで納得できた。

 彼女が目指していたものはどうやら、男性とか女性とか性差を超えた中性的または、両性具有的なものであるらしいこと。(男性性中心の現実世界には反発はあるけれど。)作品の力の抜け具合、伸びやかな感じは、そういうことだったのかと。

 そして、あの自画像は裸婦等、伝統的絵画の世界で男性からの(暴力的)視線に晒され続けるだけの女性像に対して、視線を投げ返す女性像をあらわしているんだそうで。うーん。

 確かに、芸術だ!と大義を振りかざしたところで、ティツィアーノのウルヴィノのヴィーナスにしろ、結局のところ寝室に飾るための絵だったわけで、中年貴族である注文主の意図するところは実もフタもない言い方をすれば、年若い新婦に対する「ベッドでの心得」メッセージだったって言うのをどっかで読んだことあったなぁ。今風に乱暴に置き換えるなら、寝室で見るAVか。なんともはや。

 実のところ、フィニにせよフリーダ・カーロにせよ、草間弥生にせよ、一昔前の女性アーティストって、作品以上に作者のキャラ自体が立ち過ぎているように感じる人が多くって、なんだか嫌だな〜と思っていたのです。作品だけで全てを語れよ!と。

 でも、今以上に厳しい世の中だったからこそ、女性アーティストにはまずキャラ作りから始まる自己主張が必然だったってことか、と。

 …というか、図録だけにモノクロで載っていて、展示されていない作品の方が、彼女の意図が分かりやすくて、しかもより面白そうに見えるってどういうこと???展示作品は、なんとなく全般にその辺の主張が一見すると控えめなのが多くありません?

 やっぱり、より広い客層に受けるためには、つまり「キレイね〜」で終わらせることができるような、主義主張は控えめな方がいいってことなのか。

 ちょっと前に森美術館でやっていた「ストーリーテラーズ」の、ポスターにも使われていたキャラ・ウォーカーの切り絵作品。あれ、トリミングの妙もあって、単なるメルヘンチックなアーリーアメリカンな世界にしか見えなかった。

 でも、この方は黒人と白人の問題を扱ってる人なんでしたよね。以前にid:chimadcさんのところで、彼女の作品が紹介されいたのが頭にあったから、展示作品(ポスターとは違う)も、そういう視点で見ることができたけれど、あらかじめ知っていなければ、やっぱりメルヘンだな〜で素通りしてたと思う。

 パンフレットでは、その点は匂わす程度には触れていたけれど、なんか回りくどいというか、分かりにくい言い方だった。

 見方をガチガチに固めてしまうのも良くないとは思うけれど、一応、作家が主張したいことは、きちんと解説した方がいいんではないかと思うのですが、それじゃ、日本では敬遠されてしまうんでしょうかね。人種にせよ、セクシャリティにせよ、政治的要素があるからか。