ゴッホ展/東京国立近代美術館

 その昔、オルセー美術館で体験したゴッホ部屋は、正直、私にとってはかなり恐ろしい空間に思えた。それは例えて言うなら
「ヤバイ、ヤバイ。何だか分からないけれど、かなりヤバイ電波がこの空間いっぱいに漂ってる〜〜目に見えないけれど」
そんな感じ。
 この部屋に来るまでに、さんざん有名どころの絵を目にしてきていた。他の作品からは「電波」なるものは感じないのに、ここだけなぜ?だからこそ、より一層恐ろしい気が。
 と、いきなり「デンパ」な発言で申し訳ないのですが、つまり、このゴッホ展に足を運んだ目的は、「電波」的に感じたものを、自分なりに客観的に検証してみようということでして。ありがたいことに、この企画展では、ゴッホの作品を年代順にに並べていてくれる。
 やはり、というか「電波」の放出が徐々に感じられるのはアルル以降。『種まく人』の背景の中心にある太陽とか。有名な作品ではありますが、パリ時代の浮世絵の模写程度では、「電波」はまだまだといったところ。
 そして「電波」放出量マックスなのは、療養院以降なんですね。死ぬ数週間前に描かれたものたち。オルセーで一番、「電波キター!」と慄いた『星月夜』も、多分このころ。
 今回初めてみた『サン=レミの療養院の庭』は、中でも体調のいい時期に描いたようで解説には「肩の力が抜けた…」云々と書かれておりましたが、いやいやそんな生易しいもんじゃありませんよ。私には「電波」来まくりです。いや〜〜〜。
 と、イカレたことばかりを並べていますが、「電波的なるもの」とは、ロマンチックに言えばゴッホの精神状態を反映なのかもしれない。
 が、結局のところ、身も蓋もない言い方をすれば、絵の具の使い方の問題ともいえるのかもしれない。
 具体的には黄色と青の使い方と、絵筆のタッチとでもいうか。
 「電波」を感じる部分には黄色と、それに寄り添うように青がセットであるから。互いは交じり合わず、濁らず、うねりとなって色彩として、キャンバス上に塗られている、というより、ツヤツヤした小さな立体パーツとして緻密に置かれてる、というか。この辺、点描とも意味合いが違うのです。上手く言えませんが。
 黄色の持つ波長(波動ではオカルトですが、波長です。科学です。)と、青の持つ波長、そして、緻密なタッチがこう、尋常ならざる感を与えるのだろうか、というのがど素人の個人的な仮説なのでありました。
 貧乏で不遇なのがゴッホの生涯といわれておりますが、彼の黄色がやたらと今に至るまで色鮮やかなのは、画商として成功していた弟のテオがせっせと送った、パリの最新かつ最高級の絵の具のみを使用しているため、つまり同時代のどの画家よりも、絵の具の質だけはいいからだという話を何かで読んだこともあります。
 それにしても。
 ゴッホの作品以外に、彼が好きだったと言われる絵、手元に置いておいた絵も一緒に展示されておりましたが、彼ってこんな作品が好きだったの???と、意外なものが多かったです。静謐な宗教的銅版画とか、ある意味、少女マンガ的に可憐な人物像が描かれた牧歌的な風景画とか。
 それと、模写。ドラクロアとか、元になる作品自体が濃いはずなのですが、アルル以降は、ゴッホが描くとゴッホの絵にしか見えない…。ゴッホ節は、かなりこぶしが効いております。