失われた10年以上の何か

「a2004ちゃん、私…」
 受話器からこぼれた第一声だけで、誰だか分かる。Mちゃん。何年も声は聞いていなくても、分かってしまう。負のオーラで。
 転居ハガキを出して、彼女からも久々のメールが届いていた。そのメールに主に書かれていたのは、会いたいということと、かつて彼女をいじめ抜いたお局と、彼女と不倫関係?にあった課長(当時)が、ともに地方の、別々の支社に飛ばされて「ざまぁみろ」という内容だった。

 私と彼女が一緒に新卒で入ったあの会社時代が、彼女の中ではまだ終わっていないのだなと思い知らされた。もしかしたら、一生…? そう思うと暗澹たる気持ちになる。

 彼女は、何も悪くなかった。普通に明るい性格で、仕事もきっちりしていた。でしゃばりでもない。
 それが、お局の気に触ったのか。
 お局は、一般職(社内弱者)ではあるが、人事部長のコネで入社していた。この会社では強力な後ろ盾がある、ということを意味する。
 その辺を逆手に取って、お局はやりたい放題だった。例えば、取引業者からの電話も、気分任せで取り次がないばかりか、お菓子等の付け届けを暗に要求しているような女だった。「あたしの覚えがよくないと、取り次いであげないわよ」ということ。Mに普通に仕事をされるだけで、自分のお株が奪われると思ったか。
 いや、それだけではない。
 彼女が「この会社で一番嫌い」と公言していたのは、私の方だった。それが、お笑いなことに、私が入社する前からの発言なので、同じ部で総合職で初めて入ってきた女、ということ自体が気にくわないのだろうというのが、衆目の一致した意見。
 なので、そもそものターゲットは私だった。が、いくら攻撃しても、ビクともしないので、面白くない。
 そうこうしているうちに、仕事内容やフロアは変わらないのだが、私は、組織図上はお局、そしてMとは別の部署になった。
 お局のMに対するイジメは、このころから一種のパワーハラスメントとして始まった。
 一つ例を挙げれば、彼女たち一般職の日々の業務としての伝票作成に必要なハンコ類を、お局はワザワザ、自分の鍵のかかる引き出しに全て仕舞いこんだ。必要なハンコと言っても、三文判的なものばかりなのだが。
 Mは毎日、何度も何度も「Hさん(お局の名前)、業務に必要なハンコを使わせていただきたいので、鍵を開けていただけませんでしょうか」とお伺いを立てる。すると、お局は鍵を開けて、彼女に「終わったらすぐ、私に手渡しで戻して頂戴!なくしたら一大事よ、分かっているわね」と言って、うやうやしくハンコを一つ取り出す、と言う具合。
 これ、キーを打ちながら、今でも心底、馬鹿馬鹿しいと思う。だが、この馬鹿馬鹿しい儀式が重要な点は、お局の機嫌を損ねたら、Mも仕事ができない、ということを思い知らせることと、お局に絶対服従する態度を取らせることを習慣付けることなのだ。実際、お局はわざと席をはずして、Mを困らせたことなど何度もある。
 そして戻ってきて言い放つのだ。
「ああら、あなた、私がいないとなーんにもできないのね」
 この信じ難い、芝居がかった言い回し(絶句)。
 お局のことは、当時は「大映ドラマ」と思っていたが、今風に言えばケバいファッションも含め「ハン流ドラマ」のイジワルキャラそのもの。
 これ以外にも多々ある、首を傾げるどころか、そのまま折れてしまいそうな悪意のあるパフォーマンスのオンパレードを目の当たりにしている、同じ部の男性諸先輩方に
「働かないHに代わって、Mが一人で一生懸命やってて、Mには大変、世話になっているはずですが、このおかしな状況を何とかしないんですか。皆さん、職分はHよりずーっと上ですよね」
と切り出したこともあった。すると、
「そりゃ、分かっているさ。でもHは人事部長コネだけじゃなく、T課長とできてるからな。T課長は間違いなく何年か後に、事業部長になる出世頭だ。Hは嫌だけど、T課長とゴタゴタは起こしたくないから、俺ら黙ってるんだ」
との、大変ストレートで分かりやすいお答えをいただく。
 普段、伝票切りと電話取りぐらいの仕事しかしないHであるが、T課長の宿泊を伴う出張に、彼女も会社経費でお供するというステキすぎる間柄。否、こんなことが公然と行われている組織は、そもそも腐っている。
 そう、パワーハラスメントは、元々腐った組織だからこそ生じるものであって、個人と個人との力関係の修復だけでどうこうできる問題ではないということ。
 最初、私がターゲットになってありとあらゆる理不尽でふざけた言い掛かりをつけられても、はね付けることができたのも、お局と私の間に組織上の上下関係が入り込まなかったことも大きいように思うのだ。
 そしてMは、更にめぐり合わせが悪いことに、何のコネもなく入社した、この会社としては珍しい一般職だった。
 実のところMも結構、強い性格だった。こんなことで負けたくないと、笑顔で耐えてしまった。が、それが返って災いしたのか。
 色々あった挙句、最終的には女子更衣室のロッカーに掛けておいたMの制服が、何者かによってハサミのようなものでメッタメタに切り裂かれるという事件まで起こった。大映ドラマでもハン流ドラマでもない、実話。
 これで問題が公になるかと思いきや、日本的な組織というのは波風を立てないのを是とするもの。つまり、あまり分かっていないその他大勢の人たちは、切り刻まれるようなことをされたMの方がなにやら悪いことをしているのではないかと考えた。
 それでとうとう、Mの方が重い心身症に陥ってしまった。パニックを起こすので、電車にも乗れなくなった。結局Mは、長期休職の末、退職したのだった。
 Mは、どこから仕入れてくるのか、その後会ったり、メールをくれるときは必ず、HやT課長動向を含む会社の近況を報告する。鬱がひどくて、と何種類かの薬も常時飲んでいるようだった。
 Mはこう思っている。Hの異常なやり口を、会社の人は本当には理解していない。分かってくれているのは、同じ目にあったことのある私だけ。
 制服事件のときも、Hがやったと同時に、Mの自作自演説も噂になり、彼女は二重三重に傷つくことになった。この噂の出所はT課長なのだが。
 彼女の電話は、今週にでも一緒に会わないか、だった。メールの返事が待ちきれなかったのだろう。
 私が彼女からのメールにすぐ返答しなかったのは、考えを決めかねていたからだった。
 多分会えば、前の会社の話題になる。その時、今まで通り、うんうんと聞き役になるか。それとも、あの会社ことは、もう忘れなきゃいけないんじゃないか、と切り出すか。
 許せ、ということではない。それは違う。ただ、あの会社で起こった出来事に固執することが、彼女の場合においては、人生を台無しにしているように思えてならない。
 たかだか5年ちょっとのことが、その後の10年以上までも、結果として失わせている。これ以上、ダメにしてどうする。そのことの方が悔しい。それとも私自身も、彼女と接触を絶った方いいのか。
 朝方の、ちょうど仕事に出る直前の電話だったこともあって「また連絡するから」と切った。
 そして、覚悟を決めて来週はどうか?とメール。すると、さっきは電話する元気があったけど、また鬱の波が来て、布団から這い上がる気力もない。また今度、というような返信がくる。
 Mは私に会いたがる。けれど、体調を崩して流れる。二人ともに会社を辞めた後で、本当に会えた回数は、実はそう何回もない。
 
 私はまだMが元気なころから、こんなところは早く辞めた方がいいと言っていた。Mの職分では社会保険分はともかく、フリーターをやるより手取りは低いし、がんばるだけのメリットはないと。
 けれども「私はまじめに働いて、何も悪いことはしていないんだし、辞めるなんて馬鹿らしい。だから戦うわ」と彼女は言った。確かにその通りだ。それは正しい。
 けれども、正しいことと人生をサバイヴすることとは、また別のことなのか。そんな青臭いことを今更ながらに考える。