疑問符としての芸術 千住 博+宮島達男対談集 ISBN:4892101370

 帯に「日本的ってナンデスカ?」というコピーが。最近、私も常々同じ疑問を持っていたので買うことに。

 以前、たまたまチャンネルをつけたら、大徳寺聚光院伊東別院襖絵を製作するドキュメンタリー番組をやっていた。それが千住氏を始めて知るきっかけだった。滝をモチーフにしているのだが、宇宙を描いているようなスケールの大きな作品で、描き方も筆ではなく、スプレーを使って、大胆に水しぶきを吹き付けたり。それが、伝統のある古いお寺に新たに加えられる。なんだかものすごく興奮した記憶がある。

 宮島氏の方は、原美術館や初台のオペラシティに、最近では森美術館にデジタルの作品が常設されていて、つまり何度も何度も実物を見ているのだが…建物のインテリアの一部としてなら面白いなぁと思うけれど、アートとしては何を意図するものかさっぱり分からないのであった。

千住氏は、岩絵の具好きで日本画家になったらしいということが分かって、ますます彼に親しみを感じた。私の岩絵の具好きと、彼の言うそれとの間には、質的に百万光年くらいの隔たりがあるとは思うのだけれど。それと「こういう魚しか認めないって並べている魚屋さんがいたとしたら、決定的に『アーティスト』なんですよ」という発言には、思わず笑ってしまったが、同時に「なるほどね〜」と大きくうなずいてしまった。

 近所の小さな魚屋のオヤジは、買いに行くと必ず、この時期になぜこの魚を選んで並べているかを語る。実に熱く語る、語る。(笑)例えばサンマ一つとっても、月によって買い付ける産地が異なる。彼なりの研究により、今のこのタイミングではここのサンマが一番ということらしい。そんなオヤジの店の魚はどれも、値段はお高めではあるが、本当においしい。オヤジの言葉ではないが「スーパーの魚なんか不味くて食べられなくなる」のである。そして、旨い魚はその姿も美しい。彼は、その独特のトークも含め魚アーティストなのかもしれぬ、と思う。
 けれども最もココロに残った言葉は宮島氏のこの発言。

たとえば敦煌の壁画にしても、隋や唐の初期の窟の壁画は今はほとんど色なんかも落ちてしまって形が分からなくなっている。だけど心に「くる」ものはそっちの方が断然強かったりするわけです。その時代の画工たちは確かに長く残せる技術は持っていなかったかもしれないけど、彼らの意思とか意識みたいなものは、そんなことには関係なく画面に刻まれている。(中略)そういった意思なり意識なりが、もう色が落ちようが何しようがそこに残ってしまうというところが僕はすごい魔力だなと思う。反対に色はしっかり残っていても、形ははっきり残っていても何も「こない」っていうのはじゃぁどこが違うのかといえば…作家の意思の違い、としか言えないと思うんですけどね。

 作家の意思の違い。私も一応、写真をやっているので肝に銘じておきたいと思う。

 ところで作品から勝手に「スカした野郎」というイメージを持っていたのだが「宮島氏って、面白いしいい人だな」と思うようになった。油絵学科に入学したくせに、一度も油絵を提出することなく卒業してしまったという過去話もスゴイ。

 なのに、やっぱり作品は好きにはなれないのだ。対談の中で少しづつ自分の作品について語っているのだけれど、それでもまだ頭の中はしっくりとこない。もー、本当にごめんなさい!なのです。